南極漂流者
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【後周】趙弘殷(ちょうこういん)
 趙弘殷とは、かの北宋太祖である趙匡胤と、太宗である趙匡義の父です。
 息子二人が史上名高い賢君として名を刻んでいますが、父親の方はよくある実質的初代皇帝とかいうのではなく、仕えた王朝のいち将軍だったので、特にまとまった列伝がありません。

《宋史》太祖紀の最初にちょこっと書かれています。
(それを追記にちょっと紹介しておきます)

 そこで伝には書かれていないようなことを含め解説を。
 趙弘殷は鎮州の軍閥、趙王の王鎔に仕えました。王鎔は外交手腕や政治能力が高いものの、軍事に関しては腰が引けるところがあり、果敢な指導者、群雄という印象ではなく、財力に物を言わせて傭兵を雇っている感じですね。
 鎮州の王氏というのは、唐末の混乱から実に百年ほど世襲が続いた、名門軍閥という感じで無視しようのない威勢を有していました。もちろん唐やその唐を滅ぼした後梁などの正朔を受けていますので、自立して国号を掲げ帝を称していたわけではありません。
 しかしながら、地元における威勢は、帝王のそれだったといいます。
 いち地方の節度使が、
 趙氏は涿州の人ですが、幽州ではなく鎮州軍閥に仕えたというのが、その募兵に応じたからではないかと思います。

 西暦910年11月に、後梁が鎮州(趙)を狙って侵攻したとき、当時、晋王を継いで2年目だった李存勗は、鎮州の求めに応じて救援に向かいました。
 後梁と晋の命運を分けた「柏郷、高邑の戦い」です。
 これは後梁が鎮州(趙)を攻撃するために起こった戦闘ですが、後梁対晋という形になります。
 晋は野戦で後梁と戦うわけですが、救援を求めた鎮州(趙)が傍観しているわけにはいかず、いくらかの加勢を送ります。
 それに従軍したのが趙弘殷。
 その武勇を気に入った李存勗は、そのまま鎮州から趙弘殷を借りてしまいました。
 これによって、趙弘殷は晋→後唐の禁軍都将になりますが、後漢になるまでずっとその地位だったのでした。

 とはいえ、趙弘殷が晋に加勢に参じたのが、柏郷の戦いであったかどうかは、実は定かではありません。
 鎮州はたびたび晋に援軍を貸しているので、《宋史》太祖本紀にある「河上において」というのが、河水(黄河)をめぐる攻防のときなのかもしれないので、のちのち気に留めておきましょう。
 ちなみに、柏郷の戦いも川を挟んでの戦いなのであります。

 さて「同光より開運まで」つまり、後唐が建ってより後晋が潰えるまでのことを指しているこの期間、特に目立った昇進もなく、依然禁軍のいち都将として過ごしたようです。
 また本人も、それをとくに気にかけることも、負い目とも思っていなかったようです。
 その活躍がようやく史書に見られるのは、後漢が建って間もない頃の、西暦948年(乾祐元年)に起きた三鎮連衡の乱のときです。
 三鎮の要、河中の叛乱には当時枢密使だった郭威が当たっており、趙弘殷は趙暉や薬元福ら名将の下で、鳳翔の乱鎮圧に従軍していました。
 鳳翔は後蜀に臣従したので、その援軍が陳倉道を越えて来ました。
 陳倉で迎撃にあたった趙弘殷は、緒戦で流れ矢を左目に食らってしまいましたが、それでもなお倒れず指揮したため、士卒は奮闘し後蜀を追い返すことに成功できました。

 これは揺ぎ無い功績ということで、ついに禁軍の中枢、侍衛親軍の馬軍(護聖軍)の指揮使とされました。
 ということは、このあとの後漢時代は、護聖軍の指揮使の一人として、郭威の指揮下に配属されたということになります。
 息子の趙匡胤も実は、三鎮の乱のとき、直接郭威の軍に参じているので、同じく郭威の指揮を受ける身ではありますが、父親が「後漢禁軍の一将軍」として郭威の下に配属されているのに対し、趙匡胤は「郭威の私的な軍隊の一人」という感じになります。
 郭威の私的な軍隊=牙軍は、基本、柴栄が指揮するので、ここにも強固なつながりができています。実に運がいいというか、うまいことやっています。

 ともあれ、郭威が鄴に出鎮したとき、趙弘殷はその下にいたはずです。
 なので、「郭威軍」(鄴に出鎮した郭威の指揮する軍を、鄴軍あるいは魏軍とされた)の南下に従い、開封近郊七里の集落(七里店)において後漢軍を撃破(劉子陂の戦い)するのに、いくらかの武勲は立てたでしょう。
 しかし後周が興って、郭威在位の間も特に趙弘殷の名前が記載されていません。
 実際に趙弘殷の名が見えるのは、実に顕徳元年(954)、柴栄嗣位の後ですね。
 だから、あるいは郭威軍南下のおり、柴栄や趙匡胤ともども、鄴に残ったかもしれず、郭威在位時はやはり柴栄の移鎮に従い、澶州に行きそこに詰めていた可能性もあります。
 郭威の末年、柴栄が晋王・開封尹・内外兵馬事等として皇帝代理を務めるため、開封に戻ったのでそのとき一緒に都入ったか、趙匡胤が滑州の節度副使とされるのを、柴栄が取り下げて身近に置いたことから、父親も呼び寄せたか、そういうところでしょう。

 さて、柴栄が嗣位したのちすぐに、北漢が遼と組んで侵攻を開始しました。
 北漢軍三万、遼軍一万、諸部族五万をもっての来襲。
 柴栄は馮道らの反対を押し切り、親征して状況打破にかけます。
 そのときの編成で、趙弘殷は殿前鉄騎第一都指揮使とされます。
 のちに後周最強とされる殿前軍に属する鉄騎軍ですが、同じ禁軍のいち部隊とはいえ侍衛親軍よりはさらに皇帝の身近な武力として存在しているので、柴栄の中軍の将のひとりというところでしょう。
 ちなみに、その第一軍かどうかは定かではありませんが、高懐徳や王審琦がその下位で指揮使を務めていたもよう。この頃から鉄騎軍の素性は確かで、北宋建国に至るまでの重要な要素をもった部隊だったといえましょう。

 さて史上に名高い「高平の戦い」を経て潞州で行った論功行賞のとき、趙弘殷は李重進指揮下の侍衛親軍の馬軍(龍捷軍)右廂都指揮使に異動されました。
 これは前任者の解雇によって生じた穴埋めなんですが、禁軍主力をより身近なもので固めた人事です。ほかに侍衛親軍から解雇された者の穴埋めとして配属された者は、李継勲、韓令坤、慕容延釗などがいます。これらは柴栄時代の特筆される将帥たちですね。

 柴栄による北漢への逆遠征が失敗に終わったあと、有名な「禁軍の大改造」が行われます。
 殿前軍の強化拡充を第一の目的とした大改造ですが、侍衛親軍にもそのメスは入りました。大幅な冗員削減がそれですが、趙弘殷は龍捷右廂都指揮使の地位は変わらず、その上位の馬軍都指揮使に韓令坤が任命されました。
 韓令坤は趙匡胤より五歳年上なだけで、趙弘殷からしたら息子みたいなものです。
 このへんに柴栄の、若手の積極起用という意思が見て取れます。韓令坤も将家なので、趙弘殷としても以前から付き合いのあることだし、教育者的な役割を与えられたかもしれません。

 早速、大改造した禁軍の威力が試されるときが来ます。
「淮南戦役」です。
 趙弘殷は龍捷軍主将である韓令坤とともに先駆け、侍衛親軍の総大将である李重進と兵を合わせて、南唐の劉彦貞を粉砕します。
 柴栄が寿春攻略のため親征するとその身辺におり、南唐の名将、劉仁贍が籠もる寿春が落ちないことにイラだった柴栄が、餅売りをぶっ殺そうとすると強く諌めたりするなど活躍しました。
 検校司徒、天水県男とされます。

 電撃的に淮南を横断する後周軍。
 趙匡胤が寡兵で滁州を落とすと、その滁州に援兵と一人の官吏を伴い赴きました。
 滁州には夜に到着しましたが、開門を呼びかけると、趙匡胤が楼上から「夜に門を開けるのは重大な軍令違反だ」と言われ、締め出しをくらい夜明けを待たされるのでした。
 連れてきた官吏は趙普ですね。
 このあと趙弘殷は病臥していまいます。
 趙普はその趙弘殷を親にするように介護したことから、趙匡胤の記憶に留まるようになります(趙匡胤は介護しなかったのだろうか。最前線だったからその余裕がなかったのかもしれないけど)。

 さらにその後、南唐軍の動きが活発になり、後周は占領地を放棄せねばならない事態となりました。
 滁州から撤退時あたりで、趙弘殷は死去してしまいます。

 殿前都虞候の息子趙匡胤とともに、後周禁軍の重要な位置を占めていた親子だけに、その威勢は高かったといいますが、実態はさほど威勢を振るったという感じではない印象です。
 それは趙弘殷のひととなりが、すさまじく慎み深いところからくる、地位は高いのだけどどこか地味に映るからでしょうか。
 猛将の逸話があるほどの人のわりには、息子の悪友、韓令坤の下に配置されたり、趙匡胤に締め出し食らったり、怒れる柴栄を宥めたり、なんかかわいげがある。
 息子世代が軍中を占めているので、もう達観していたんでしょうかね。馮道とかに通じる柳の印象を受けます。


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柴栄?郭栄?
 ご存知のとおり、五代十国時代最高の名君であり、後周国二代目皇帝といえば、世宗・柴栄であります。

 柴栄は、はっきりとはわからないながら、十歳前後で郭威が養子として迎えているようなので、姓は郭となって、郭栄と呼ばれていたことでしょう。
 しかしながら、《旧五代史》では郭栄という表記は見当たらず、後周太祖紀に「皇子~栄」とあるのみです。
 国姓が郭なので、省略されているだけなので、これは郭栄と読むのでしょうね。
 実際に「郭栄」と書かれているのは、《資治通鑑》です。

 問題は、郭威が崩御して柴栄が嗣位したときです。
 いったい、国姓はどうなったのやら?

《世宗実録》では「太祖皇帝の長子やで。母は聖穆皇后柴氏やで」ってなってます。
 でも、養子で柴姓だということは、みんな知っているので、国姓は柴で認識していたようですね。

 柴栄が皇帝になって、後蜀国と一戦やらかしたとき、後蜀国の迎撃軍は「破柴都」と軍額を掲げていました。
 柴を破る、ですね。
 あと、ほんとうかどうか、柴栄が幽州を目前にして倒れるときの逸話で、幽州の者が柴栄の侵略を評して言った言葉。
「全然心配する必要あらへんで。相手の天子の姓は柴や。ほんで幽州はむかし燕といったやろ。燕は煙と同じ読みやゆうのはわかるわな。でや、煙は火がないとたたん。せやから火に柴が入って勝てるはずあらへんやろ」(《旧五代史》周書世宗紀六)
 と言ったら、本当に不予になったって話。
 ちなみに、後周の五徳は木徳で、火徳の宋に取って代わられるんですよ。

 なので、柴栄の代になってから、後周国の国姓は柴で認識されていた可能性があります。
 諱と違って、忌避されないのでなんともわかりませんが。
 とはいえ、本人の意識はどうだったのだろうか。
 戦場にあるとき、本営に掲げられた帥旗は、柴だったのか郭だったのか……。

これもどっかから拾ってきた柴栄さんの雄姿

 こういうのを見ると、後世的には「柴」が定着しているって感じですけどね。


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【後周】史彦超(しげんちょう)
 史彦超というのは後周の驍捷です。
 史建瑭や史弘肇にしろ、史という姓は勇猛な人が多いようです。ちなみに、史建瑭の父は史敬思で、子は史匡威(史懿)。
 史彦超は郭威の起義に従ったことで、史書に名が見えるようになります。
 それ以前は不明。
 史彦超は侍衛親軍の龍捷都指揮使ということですが、後漢期には龍捷という軍額は存在せず、おそらく護聖軍(侍衛馬軍)のいち都将だったと思われます。
 当時の侍衛親軍の構成は。

 侍衛親軍都指揮使・史弘肇
 ├侍衛馬軍(護聖軍)都指揮使・李洪建(李業の兄)
 │ ├護聖左廂都指揮使・郭崇威
 │ └護聖右廂都指揮使・?
 └侍衛歩軍(奉国軍)都指揮使・王殷
   ├奉国左廂都指揮使・曹威
   └奉国右廂都指揮使・?

 という具合です。
 侍衛馬歩軍の左右廂軍はすでに郭威の指揮を受けて魏州に駐屯していました。

 後漢の末は、李業の画策により史弘肇が殺されます。まず侍衛親軍のトップがいなくなり、ついで王殷にも誅殺の密命が下りますが、これにより事件が郭威の知るところとなります。
 李洪建はその密命を出させた李業の兄なので、侍衛馬軍は皇帝派ということになりますから、侍衛馬軍のナンバー2になる郭崇威に、郭威暗殺の密命が出されました。
 しかし暗殺の密命がすでに郭威に露見していたので実行はできず、むしろ重臣を暗殺した君側の奸を除くため、郭威に協力することになりますので、その下で都将だったであろう史彦超も、そこに加わることになったはずです。
 
 その史彦超が活躍の場を得たのは、「高平の戦い」と「忻口寨の戦い」であり、北漢や契丹相手に武名を轟かせますが、契丹の南院大王、耶律撻烈の伏兵によって討ち死にしてしまうのです。
 惜しいところです。



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【後周】魏仁浦(ぎじんぽ)
 魏仁浦は後周国の軍師です。王朴を漢の張良や魏の荀彧のような経世の軍師とするなら、より軍事に傾向する軍師、漢の陳平あるいは魏の荀攸とか賈詡に匹敵するのが彼でしょう。
 農家の出だけど、その記憶力に抜群の才能をみせ、性格も寛容で我を通すような不遜さがなく、匹夫・杜重威に見込まれた、というのはご愛嬌として、まず郭威の知己を得られたのが彼にとっての幸運だったでしょう。
 鄴都の密謀や、高平戦で皇帝の陣頭指揮を勧めるなど、転機には関わってはいい方向に動かした、後周きっての功臣というべきでしょうね。
 北宋になって、趙匡胤もその知略を頼っているのですが、そのとき本人はもう隠居したがってたようです。


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【後漢】劉銖(りゅうしゅ)
 劉銖は後漢高祖、劉知遠の元従として、その中核を担った武将なので、後漢が興るにおよび、地位は高くなります。
 後漢期は、出世を元勲派に閉ざされた、側近派の妄動で王朝が崩壊してしまう混乱を起こしてしまいますが、劉銖の利害は出世にはなく、元勲派の専権が気に入らなかった、ということで側近派に与した感じですね。
 武力をみせつけ、力で統治しようとする、尊大で酷薄な人物だから、側近派が元勲派を抹殺したのに遅れまいとして、郭威や柴栄の家族をためらいなく皆殺しにできたのでしょう。
 郭威はしかし、劉銖とその子は処断したけど、妻には憐れみをかけ、恨みの連鎖を断ち切っています。しかしながら、兵を率いて開封に入城し、自宅に立ち寄って一晩明かしたその心がいかばかりであったのか、しれないのです。


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