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Author:マルコ
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| 【PCゲーム】三國志12 |
この4/20に発売された、コーエーテクモゲームスの三国志の最新タイトル『三國志12』。
どーーーーーーーも、評判はかんばしくないようですね。
Amazonのレビューをみると、こりゃ買う気も失せる。
「グラフィックは良い」と、こればっかりは否定派も認めるところですが、内容のチープさを強調するユーザーが多いのは泣ける。 三國志修澆燭い法▲僖錙璽▲奪廛ットで大化けでもすれば、PS3とかのコンシューマー版でよくなるかもしれないけど、今手を出すのは完全に人柱だな……。 というわけで、今回は見送り決定。すまんコーエーテクモさん。
コーエーテクモさんには、三國志-2を出してくれと切に願いたい。
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| 【後周】史彦超(しげんちょう) |
史彦超というのは後周の驍捷です。 史建瑭や史弘肇にしろ、史という姓は勇猛な人が多いようです。ちなみに、史建瑭の父は史敬思で、子は史匡威(史懿)。 史彦超は郭威の起義に従ったことで、史書に名が見えるようになります。 それ以前は不明。 史彦超は侍衛親軍の龍捷都指揮使ということですが、後漢期には龍捷という軍額は存在せず、おそらく護聖軍(侍衛馬軍)のいち都将だったと思われます。 当時の侍衛親軍の構成は。
侍衛親軍都指揮使・史弘肇 ├侍衛馬軍(護聖軍)都指揮使・李洪建(李業の兄) │ ├護聖左廂都指揮使・郭崇威 │ └護聖右廂都指揮使・? └侍衛歩軍(奉国軍)都指揮使・王殷 ├奉国左廂都指揮使・曹威 └奉国右廂都指揮使・?
という具合です。 侍衛馬歩軍の左右廂軍はすでに郭威の指揮を受けて魏州に駐屯していました。
後漢の末は、李業の画策により史弘肇が殺されます。まず侍衛親軍のトップがいなくなり、ついで王殷にも誅殺の密命が下りますが、これにより事件が郭威の知るところとなります。 李洪建はその密命を出させた李業の兄なので、侍衛馬軍は皇帝派ということになりますから、侍衛馬軍のナンバー2になる郭崇威に、郭威暗殺の密命が出されました。 しかし暗殺の密命がすでに郭威に露見していたので実行はできず、むしろ重臣を暗殺した君側の奸を除くため、郭威に協力することになりますので、その下で都将だったであろう史彦超も、そこに加わることになったはずです。 その史彦超が活躍の場を得たのは、「高平の戦い」と「忻口寨の戦い」であり、北漢や契丹相手に武名を轟かせますが、契丹の南院大王、耶律撻烈の伏兵によって討ち死にしてしまうのです。 惜しいところです。
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| 【後周】魏仁浦(ぎじんぽ) |
魏仁浦は後周国の軍師です。王朴を漢の張良や魏の荀彧のような経世の軍師とするなら、より軍事に傾向する軍師、漢の陳平あるいは魏の荀攸とか賈詡に匹敵するのが彼でしょう。 農家の出だけど、その記憶力に抜群の才能をみせ、性格も寛容で我を通すような不遜さがなく、匹夫・杜重威に見込まれた、というのはご愛嬌として、まず郭威の知己を得られたのが彼にとっての幸運だったでしょう。 鄴都の密謀や、高平戦で皇帝の陣頭指揮を勧めるなど、転機には関わってはいい方向に動かした、後周きっての功臣というべきでしょうね。 北宋になって、趙匡胤もその知略を頼っているのですが、そのとき本人はもう隠居したがってたようです。
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| 【北漢】楊業のことをつらつら。 |
楊業といえば、北宋初期の将軍として有名で、「楊家将演義」などの講談があります。 その楊業はもともとは、五代十国時代の河東政権、北漢に仕えていました。
もとの名前は楊重貴といい、父は楊信といいます。 父、楊信の代で、地元の麟州刺史とされたのが、後漢乾祐年間のこと。 麟州は黄河の西にあって、本来、河東節度使の支郡とはならず、刺史あるいは団練使が置かれていました。 楊信は太原の人、ということになっていますが、《資治通鑑》では麟州の土豪ということになっています。 それが刺史として任じられていたわけですが、後周国が起って、それに対抗して北漢が建ったとき、その《資治通鑑》にしろ《十国春秋》にしろ、初期領有州の中に麟州は含まれているように書かれています。
実は麟州刺史・楊信は、最初後周の任命を受けて、北漢の支配は受けていませんでした。 後周の京師・開封からみると、北漢の裏側のような場所の麟州が、飛び地としてあるような感じ。 しかしそれも、広順二年(952)十二月、楊信が死去して子の楊重訓が後を継ぐと、州ごと北漢に帰順してしまいます。 北漢の所領に麟州が組み込まれるのは、これによってですね。 しかしその楊重訓も、後周の顕徳四年(957)十月に、再び後周に帰順してしまいます。
その楊重訓というのが、同じ輩字をもつので、楊重貴の兄じゃないかなと。 ちなみに、《世宗実録》では楊崇訓となってます。北漢に帰順したときに、北漢世祖・劉崇の諱にあたって改めたということもあり、そうなると楊重貴も実は、楊崇貴だった? きりがないので、それはここまで。
さて、ここで疑問に思ったのが、《宋史》楊業伝、あるいは《十国春秋》北漢 劉継業伝 にある「若くして劉崇に仕える」という部分。 楊信が麟州刺史となった時期が不明なので、楊重貴がいつ劉崇に近侍したのかわかりません。 しかし後漢時代にすでに河東節度使だった劉崇に仕えさせていたとすれば、後周国の任命を受けて劉崇と一線を画したのは、思い切った決断となるでしょう。
楊業は生まれた年が不明だから、いつ劉崇に仕えたのかわからない。 わかっているのは、劉崇の子の劉承鈞(睿宗)のよって「劉」姓と、「継業」の名を賜ったこと。この時期、建雄軍節度使とされ、「楊無敵」と称されるほどのいくさ上手だったこと、北宋に降って旧姓にもどして継の字を取り、「楊業」となった、こと。
楊業が授けられた節鉞、建雄軍節度使とは、晋州に冠する軍額です。遥領でしょうね。 楊業、というか劉継業の名で登場しているのは、少主の時、団柏谷を巡って、北宋の将・李継勲の先鋒、何継筠(かけいいん)に敗れたことと、英武帝の天会十三年、北宋の開宝二年(973)三月、北宋の陣営に夜襲したあたり。
《続資治通鑑》では、もう少し名前が出ておりますが、「無敵」と称される働きってほどのものはなく、ちょっとがっかり。北宋に対しては結構、前面に出てきているみたいで、「もとより驍勇」といわれ、北漢の英武帝が降ったあとも、自分の持ち場を死守して北宋軍を寄せ付けなかった、というあたりが賞賛されたんでしょうかね。 ちなみに、遥領で建雄軍節度使を領していますが、本軍では侍衛都虞候だったようです。 楊業といえば代州、という印象ですがこれは北宋に降ってからの話。
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| 【後漢】劉銖(りゅうしゅ) |
劉銖は後漢高祖、劉知遠の元従として、その中核を担った武将なので、後漢が興るにおよび、地位は高くなります。 後漢期は、出世を元勲派に閉ざされた、側近派の妄動で王朝が崩壊してしまう混乱を起こしてしまいますが、劉銖の利害は出世にはなく、元勲派の専権が気に入らなかった、ということで側近派に与した感じですね。 武力をみせつけ、力で統治しようとする、尊大で酷薄な人物だから、側近派が元勲派を抹殺したのに遅れまいとして、郭威や柴栄の家族をためらいなく皆殺しにできたのでしょう。 郭威はしかし、劉銖とその子は処断したけど、妻には憐れみをかけ、恨みの連鎖を断ち切っています。しかしながら、兵を率いて開封に入城し、自宅に立ち寄って一晩明かしたその心がいかばかりであったのか、しれないのです。
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